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為なら。

供養の為に佛画を御掛けするという事は尊い事とおもいます。

そういう佛画というのは、技法は超えています。

そういう佛画もわたしは観て参りました。

どれ程のおもいで描かれてのかは観た瞬間に伝わって参りました。

供養の為に、佛画を描く。

願いの為に、佛画を描く。

、、の為になら、

わたし、佛画は好きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

桃山時代の佛画

わたしは、安土桃山時代(戦国時代頃)の佛画には大変に心を引き付けられます。

力強い奥に品格を感じておりますもそうですが、以前より桃山時代の金泥(金箔)には特別な美というものを感じております。

基本が極められた安土桃山時代の佛画というのは、別格だとおもいます。

時代佛画というのは無二だから美しいんですよ。

全く同じ佛画を二度描けないとおもいますからね。

此所でやはり、表具なんですね

色褪せた紫に、風化した金糸で刺繍、、

色褪せた朱に、風化した同色で刺繍

空想ですけどね。

 

 

 

 

 

 

 

時代と風化

佛画は時代の風化によるいたみ、色褪などがある場合も有るんですね。

平安時代とおもわれる佛画

鎌倉時代とおもわれる佛画

紙に大きないたみは有りましたけど、私は其処だけで美の判断はしないですね。

いたみが激しいなら硝子張りの額に入れて保存する方法もできる訳ですから。

わたしは桐箱に納めたまま大切にしまって置いたりね、色々ですよね。

当時の表具が魅力な場合も当然あります。

当時のままの表具も当時の表具師の感性ともおもいます。

いつもおもいますが、

都づくりで描かれた佛画というのは、

例えいたみが激しくても、チョットくたびれ果てているような感じがしても

都づくりで有る事には変わらないんですね。

1000年経って形がなくなっても都づくりで有る事には変わりがないんです。

様々な時代を超えてくる事によって本物の姿が浮き上がってくるんじゃないかともおもいます。わたしはね。

 

 

 

 

 

続 佛画のたのしみ

その粉本ですが、わたしは倶利伽羅龍王の佛画が大変に興味深いですね。

私も依頼を承り何度か描かせていただいた事が有ります。

不動明王の両刃ノ利剣(リケン)を龍がのみ込もうとしている姿なんですね。

不動明王は繊細すぎない方が私は好きなんですね。ですから、その力の加減だと思うんですね。私の経験からですと不動明王の佛画というのは精神面が絵画に出やすいとおもっております。

この倶利伽羅龍王も同じ事が言えるとおもいます。

例えば、

命懸けの時代に佛画師によって描かれました倶利伽羅龍王(龍剣)というのは素晴らしいです。

私の研究では、その倶利伽羅龍剣(両刃の利剣) に触れただけでどのような魔物.悪鬼ですらの墨屑鉄の様に瞬時に燃散るとおもうんですね。

数百年経っても変わらない繊細な美しさ、とどまる事のない奥拉を兼ね揃えた倶利伽羅不動明王というのは言葉では完璧に表現できないとおもいますし、また計り知る事のできない力強さがありますね。

私は、描かせていただいておもうんですね。

龍を描かせていただくというのは、

自身の精神的地力が佛画に現れる

とおもうんですね。

其は、やはりですね。粉本の線の技術だけでは中々カバーしきれない部分だとおもいます。

自身の傑作を残すのでしたら、精神的な部分が大きく佛画に入らないとですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

佛画のたのしみ

佛画は描きはじめると楽しいですね。

わたしは、粉本が得意でしたね。

中々納得がいく線を描けなく夜中までこたつに入りながら描いている。

其もまたたのしいんですね。繊細な感じの絵が好きです。

佛画の他には点描を勉強してました。

描いていて一番楽しいのは

キリの良いところで止める

でしたね。

それは自分でわかっているからなんですね。

眠いのを無理して描いていて失敗したら明日のたのしみが無くなるからなんです。

仕上がりをたのしみに休む

其もまたゆっくり休めますね。

 

 

菩薩の眼

昨夜は不動明王の眼についてお話致しましたので、今夜は菩薩の眼についてですね。

菩薩の眼というのは、半眼ですね。

佛画で《菩薩の眼が半眼》というのは基本なんですね。

飛天(ひてん)若しくは天女でしたら半眼じゃなくてもまだわかりますが、

菩薩ですと、

永遠のものを求め、永遠なる修行をされる

という意味になりますので、その意味をわかっているかそうじゃないかは大きいとおもいますね。

わたしなら 半眼を基本に自分の感性で描いた事もありました。

其は、半眼を基本としているからできる技法なんです。

美しい御尊顔というのは700年以上経っても美しい御尊顔のままですから有り難いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聖衆来迎図の思想

阿弥陀来迎図についてですが、

その御来迎の意味ですよね。

佛説(お経)には、心不顛倒。 即得往生。

と説かれております様に臨終をむかえる人が心が乱れる事のない様に阿弥陀聖衆がお迎えに来られる訳なんですね。

もっと深く言いえば、断末魔の苦しみに合わない為になんです。

ですから、阿弥陀来迎の佛図というのは臨終の恐怖を超える為の一つの手段なんですね。

阿弥陀聖衆来迎図には主に二つ有りますね。

西方極楽から急行下(急角度)で来迎引接(ライゴウインジョウ)を表す佛画と

与諸聖衆。現在其前。是人終時。

と説かれております様に正面真向きの御姿で眼の前にお出ましなられている佛画と二つの形があるわけなんですね。

例えば、

わたしが阿弥陀二十五菩薩の佛画を個人で購入するのでしたら、完璧な美を求めるでしょうね。

理想(思想)ですけどね、

色彩2:金泥8  色彩仕立てより金泥仕立てを主とし、

弥陀 観音 大勢至 聖衆 全て藤原時代ノ截金紋様、

尊顔は、全て中世時代ノ御尊顔、

阿弥陀の放つ光明は十九本、この十九の光明というのは、佛説(お経)で説かれております、臨終現前の願(リンジュウゲンゼンノガン)ですね。

雲は紫雲(シウン)で、

歌舞の菩薩の動きは残像感があるような雰囲気をかもちだし、

菩薩方(聖衆方)の持たれている雅樂器は鳳笙は煤竹で、樂太鼓の火焔飾りはこうで飛龍と鳳凰(朱雀)も、、って感じなんですね。

だから中々、理想な佛画に御目にかかれないのですがね。

ですが、生きている間に理想の佛画に出逢える事がなくてもそれは構いませんね。

いつかは本物が来迎引接してくださいますのでね、私の場合は。ですから願はあっても其処までの執着は無いですね。

 

美を求める一生を送る。

来迎絵画から音が聴こえてくるようですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

佛画と精神面

佛画というのは精神的な面が大きいですね。

その時代、その時代に基本通りに描かれていましても顔が微妙に違うのは佛画師の精神面や当時の環境にもよる事だとおもいますね、私は。

私は、描いていた時はやはり精神的な面が大きかったですね。

例えば、如来の衣を描かせていただく、その時にやっぱり自分が納得できるが描けないと先には進めなかったです。

完成がたのしみではやく観たいですが、焦れない。でしたね。

わたしは、ほそく流れる様な美しい線を好みますので描き易い角度にも重点を置きました。時代思想とかは手で描くのではなく、心(経験 感性)で描いてましたね。

手では描けますが、今まで観てきた記憶ですよね。

例えば、

わたしが十三佛さまを描くのでしたら今までの記憶まで含めて描かせていただくでしょうね。

 

 

 

 

保存の仕方

私、個人的な考えですが、

佛教古美術で貴重

という場合には何百年という時間が必要になって参ります。

例えば、私自身でしたら

一年前はこうだった、今はこう、じゃあ一年後はこうなれる様にと言えますが、

佛画の場合は一、二年で

此はおもしろい

という訳にはいかないと思うんですね、少なくとも今私の手元にある佛画はね。

だからこそ都づくりの佛画を代々に渡って大切に伝えていく事がまた素敵だとおもいますね。

で 、保存の仕方ですよね。

ただなんでもいいから巻いて木箱に入れて保存してますというのは勿体ないですので、保存の仕方を確りと心得られているというのが基本ですよね。

参考までにどうぞ。

 

 

 

 

 

 

玉眼、正眼、天地眼

鎌倉時代の玉眼づくりの不動明王像は、

素晴らしいですよね。brandカ

していると私は、個人的には感じてます。

鎌倉時代もですが、

わたしは、平安時代ですね。

平安時代という時代は密教が入ってきて造像されている訳なんですね、

両面を見開いて前方を睨まれる

此れを正眼と申します。

佛画でもそうですが、平安時代前期の不動明王は正眼が主だとおもいます。私はね。

天地眼(右眼は全開し天を見、左眼は半眼で地を見)になったのは藤原末期頃からでしょうね。

天地眼は、佛画ではよく観られます。

正眼の佛画は出逢えるchanceが中々なのかな。ともおもいます。

昼下がりにも似た話をしましたが

求めても、中々御目にかかれない。

其もまた御縁ですね。