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研究

わたしは、むかし実際に佛画を描かせて頂いていた時期があるんですね。

自分で実際に描かせて頂いていた経験というのは、佛画を観るにあたり大変にplusになっております。

実績ですね

例えば、佛教古美術の佛画が100枚うれると言うのと、自分が描いた佛画が2.3枚でも買って頂いたとでは全く意味が違うとわたしはおもうんですね。

佛画の基本を確り見極める事ができるというのは、そういう実績から生まれる事なんじゃないかなとおもいます。

認められたというのはplusに確実に繋がるとおもいます。

ミ月で50枚云々とか

佛画の観方が世界一とか

そういう事は認められて初めてなんじゃないかとおもいますね。わたしは。

根拠の無い自信は何と無くもろくてね

いつも思った事は

自分の気に入った佛画は手ばなしたくない、だからといってお金を頂く以上は手抜きはできない。嬉しい迷いでしたね。

今は、佛画は描かなくなりました。

時間がないというのもですが、

世の中には当時の佛画師が残した素晴らしい佛画が沢山ありますから、わたしが描くまでも無いですね。

彼らの佛画というのは、幾つもの時代を超えてきましたからそういう想いを伝えていきたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

佛画とおもい

私は、古い佛画がやはり好きですね。

古いから価値が云々とかじゃないですよ。

一つ言える事は、幾つもの時代を超えて来られたという事です。大変な時代もあった事でしょう。

そういう時代を超えて来られた尊い御佛の御姿を、わたしは今こうして観させて頂く事ができるという事が尊い御縁なんですね。

特に鎌倉時代の佛画、安土桃山時代の佛画というのは佛画師の命そのものだとおもいます。

其は観た瞬間に伝わるものなんです。

わたしの場合は。

基本、技法が優れているのも良いのですが、想い、願いがあついですね。

これは佛画でなくても言える事なんじゃないかな?と私は、個人的におもいます、

一つの事に命を掛ける事ができる。

一つの事に人生の全てを尽くす事ができる。

もし、そういう想いで描かれた佛画なら1000年経っても光輝くでしょうね。

形はなくなっても輝きが無くなる事は無いとおもいます。

その観た瞬間に伝わるの輝きにわたしは、いつも心をひきつけられます。

 

一つの信念を貫く為に、

その為だけに自分は生まれてきたんだと言える。そういう生き方ができる人生は幸せだとおもいます。わたしはね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浄土曼荼羅ノ研究

この極楽世界を表す一つには

極楽浄土を表した曼荼羅が御座います。

中央正面には阿弥陀如来座像

左右の両脇侍には観世音菩薩座像 大勢至菩薩座像

また、絵画全体には西方浄土を表す荘厳が細かく描かれているのも確認できるとおもいます。

今から2500年以上むかし、大聖釈迦牟尼如来様がお説きになられました浄土三部経は大陸から海を渡りやがて日本に伝わって参りました。

《そしてその台座の上には四本の宝柱があり、それぞれの宝柱は百千万億の須弥山を重ねたように高く、》

と、このように

絵画では極楽浄土の美しさを全て表す事は、チョットだとおもいますが、

佛説の極楽浄土の美しさ 荘厳は

私の人知、おもい、想像を超える程に尊い世界だとおもいます。

佛画でいう尊いとは

言葉では表現できない程の美しい姿に出逢った時にはじめて使う言葉なんでしょうね。

そういう極楽浄土を実際に生きている時に観ようと思っても観れるものじゃないんですよ。

普通わね。

だからこそ佛画を通して、釈迦牟尼世尊の説かれた世界を目の当たりにする事が、一番むずかしくない優しい方法だと私は、個人的におもいます。

佛画というのは佛教を伝える為の大切な役割をしてくださいますので、参考までにしてもらえば宜しいかとおもいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

民間佛教ノ研究

勢観では、都づくりを取り扱いますが、

私、個人的には民づくりを大切に致しております。

民づくりは、民間信仰を研究するにあたり大変な知恵を授けてくださいます。

例えば地獄絵図を完全に極めるなら民間信仰の研究なしで有り得ない事だと私はおもいます。

地獄絵図と民間信仰とは切っても切れない程、深く結び付いて御座います。

極楽浄土を頂くには浄土三部経

地獄絵図を知るには民間信仰

いいかえれば、六道世界の謎を解く鍵は民間信仰の中にあるという事だと私は、おもいます。

地獄絵図(佛画)と民間信仰の研究が死後世界の不安を超える一つの手掛かりになる事がいえるでしょう。

わたしは、民間信仰の研究も致しておりますのでご不明な点が御座いましたら、お気軽にお問い合わせ願います。

※参考までにとうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

佛画ノ基礎 続

佛画は奥が深いですから、楽しんですね。

佛画で奥拉(オ-ラ)があるについてお話しますね。

よく奥拉があると言いますが、この奥拉があるというのは私は個人的には、

基本的技法を用いて描かれている

かが一番大切な事だとおもいます。

大変に綺麗に描けているけど..基本がチョット

基本がしっかりと用いられて描けている

では全く違うんですね。

基本がしっかりと勉強されて描けている佛画というのは自然に美しさを生みだし、

時代と共に輝き始める訳で御座います。

命懸けの時代に命懸けの願で描かれた佛画が今日まで大切に守られている

そういう人々の願がいくつもの時代を超えて私のところにやって来られる

奥拉というのは、肉眼以上に肌で凄さを感じる事ができる

奥拉というのは、恐ろしい程に美しく、まともに観ることができない

佛画の奥拉とは、言葉ではとても言い表せない程の美しさを佛様から魅せて頂いた時に使う言葉だと私、個人的にはおもいます。

佛像もそうですね、

余りにも美し過ぎてまともに観ることができないけど、勿体無いから顔を上げた

余りにも凄い奥拉でふれる事もやっとだ

奥拉は眼でみえないです、わたしはね。

ですが、それ以上にこの肌で佛像から溢れだす凄さ、美しさを感じる事が、感じとる事ができる。

それが幸せなんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

佛画ノ基礎

私の個人的な研究内容では、

佛画で最も大切な事は、基本的な技法で描かれているかという点で御座います。

平安時代から今日まで受け継がれております佛画で御座いますが、必ず、基本を大切に描かれている事がどの時代におかれましても共通して言える事であります。

基本的な技法を用いて描れた佛画を都づくりと申し、主に御本尊として信仰の対象になって御座います。

此処で、一つ大切な点は、

御本尊としての佛画

佛教美術としての佛画

といえる点で御座います。

例えば、

全く新しい阿弥陀様の掛軸を買ってきた

毎日御参りをしている

お仏飯をあげている

お供え物をあげている

粗末にするとバチがあたるかも知れない

佛画を大切にしていただく事は嬉しい事ですが、ですが、

此れだけでは御本尊(信仰の対象)にはならないですね。

御本尊(信仰の対象)として佛画をおむかえするには入仏(開眼)が必要になって参ります。

俗にいう佛様に魂を入れるという意味になりますが、その場合は導師(僧侶)に入仏(開眼)のお経を上げていただく必要が御座います。

私自身、入仏をさせていただく事から申しますと、入仏(開眼)のお経を上げさせていただき合掌させていただきました時点で、

佛教美術としての阿弥陀如来ではなく、

御本尊としての阿弥陀如来で御座いますので、

朝夕の御参り

お仏飯のお供え

三具足(華瓶、念香、灯明)

が基本的には必要になって参ります。

此は佛画だけではなく佛像でも同じ事が言えるでしょう。

佛画、佛像を購入する時には

都づくりか?民づくりか?

良く描けているかどうか?

時代はいつなのか?

を重視するのも良いのですが、仏様(仏像)を研究する事もとても大切な事だと私、個人的にはおもいます。

佛画、佛像は奥が深いですので、ご不明な点が御座いましたら、お気軽にお問い合わせ願います。

※参考までにとうぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浄土教と阿弥陀来迎図(佛画ノ観方)

来迎引接ノ阿弥陀三尊

大聖釈迦牟尼世尊(お釈迦様)の御説きになられました浄土三部経には、念仏者の臨終時には、阿弥陀如来が観世音菩薩・大勢至菩薩を従え御迎えに御見えになられる来迎引接の御様子が御説きになられておられます。

【佛説無量壽経】巻上の第十九願では

原文:
設我得佛 十方衆生 發菩提心 修諸功德至心發願 欲生我國 臨壽終時 假令不與大衆圍繞 現其人前者 不取正覺

書き下し:
もし我れ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心をおこし、もろもろの功徳を修し、至心に発願して、我が国に生ぜんと欲せんに、寿終の時に臨んで、もし大衆のために囲繞せられて、その人の前に現ぜずんば、正覚を取らじ。

【佛説阿弥陀経】では
阿弥陀如来の御来迎を目の前にした念仏者は、心が乱れ惑う事なくただちに阿弥陀如来の極楽浄土に生まれる事ができると考えられます。

言い換えれば阿弥陀佛が御迎えに御見えになられると言う事は、念仏者が断末魔の苦しみや死の恐怖にあわなくて済むためと考えられます。

また、阿弥陀聖衆来迎図(阿弥陀二十五菩薩来迎図)を鑑賞させて頂きますと、来迎印を結ばれた阿弥陀如来は摂取不捨の光明を放ち、観世音菩薩は慈手をさしのべ、大勢至菩薩は合掌をなされ念仏者を誉め称え、雅楽の御荘厳をなされた聖衆方が、御浄土(西方極楽国土)彼方より現れる御姿が描かれております。

◈藤原時代より今日まで伝わる阿弥陀三尊来迎図は【佛説無量壽経】巻上の第十九願(四十八願)に基づいてによって当時の佛画師によって絵画化された佛画である事と考えられます。

たとえ、どの様な形で御座いましても、数百年前、本物の佛画師によって描かれた佛画である事は、眼にした瞬間に伝わって参ります。

たとえ御姿がなくなっても数百年という歴史が御座います。

古い佛画、佛像の尊さは、表現できない程に有り難い事だとおもいます。

それはと申しますと、いくつもの大変な時代を超えられて今、数百年前の尊い阿弥陀三尊の御姿を拝ませていただく事ができる、その御縁が計り知れない程の御縁だからで御座います。

阿弥陀如来は来迎印(らいごういん)を結び摂取不捨(せっしゅふしゃ)の光明を御放ちになられる
聖観世音菩薩は金剛でできた台座をささげ慈手を差し伸べる
大勢至菩薩は『よくぞ今日まで念仏をとなえて参った』と合掌し念仏者をほめたたえその心を励まされる

この尊い阿弥陀聖衆の御来迎(来迎引接)を目の前にした念仏者は、来迎をまのあたりにして

【阿彌陀佛、放大光明、照行者身。與諸菩薩、授手迎接。觀世音大勢至 與無數菩薩、讚歎行者、勸進其心。行者見已、歡喜踊躍。自見其身 乘金剛臺、隨從佛後、如彈指頃 往生彼國。】

おどりあがって喜び、ふと自分を見ればその身はすでに金剛の台座に乗っている。そして佛の後につきしたがって、たちどころに※その国に生まれるのである。

※その国とは西方極楽浄土で御座います。

阿弥陀三尊の光明はまばゆく輝いていて はっきりと見ることができない。

『どれ程の黄金の輝きを集めても そのまばゆさには比べようもなかった』【佛説観無量寿経】より参考させて頂きました。

私(勢観)が、佛画を選ぶのではなく、佛様に描かれた阿弥陀様の方が私に御縁をくださった。

素晴らしい御縁をいただける様、精進に励む所存で御座います。

合掌 南無阿弥陀佛